越乃雪と大和屋あゆみ
安永7年(1778年)、長岡藩9代藩主、牧野忠精公が病に伏された時、近臣が憂い、大和屋庄左衛門(大和屋庄七の祖)に相談しました。庄左衛門はこれを受け、寒晒粉に甘みを加えて調理した菓子を作り、献上いたしましたところ、忠精公の食欲が進み、ほどなく病がなおられました。
忠精公はたいそう喜ばれ、庄左衛門を召され、『実に天下に比類なき銘菓なり。吾一人の賞味は勿体なし。之を当国の名産として売り拡むべし。』と、この菓子に『越乃雪』の名を賜りました。その後この菓子の製造を続け、文化6年(1809年)には藩の贈り物用菓子の御用達を命じられました。写真の御用箱にお殿様に納めるお菓子を入れてお城の門を出入りしておりました。
その頃はまだ千手町村に店を構えておりましたが、天保元年(1830年)には故あって柳原町の会津屋次右衛門に替わって長岡藩の鉄物御用を命じられ、千手町村から現在も店を構える柳原町に移転いたし、御用菓子屋、御用金物屋を続けました。左上の写真が金物屋の看板です。同年には悠久山御社(蒼紫神社)御用を命じられ、毎月お供え菓子を献上するようになりました。この頃には『越乃雪』は藩主や藩士の参勤交代の贈答品として盛んに求められたため、江戸をはじめ蝦夷地や上方にまで広く知られるようになり、また町方や在方の冠婚葬祭にもお使いいただくようになりました。
明治初期 水島爾保布(長岡の風物風景を描いた画家、小説家随筆家)が描いた柳原の大和屋全景
『米百俵の精神』の小林虎三郎は師佐久間象山への贈り物として『越乃雪』を使用されていたことがその本の書簡資料に載っております。また、同門の吉田松陰の弟子高杉晋作は亡くなる十日ほど前、今年の雪見はもうできないからと見舞いにもらった『越乃雪』を傍らに置いてあった松の盆栽にふりかけて雪見の名残をされたといわれています。河井継之助を初め長岡の幕末から明治、大正、昭和かけて活躍した多くの人々に愛されてきました。
明治天皇北陸御巡幸の折の菓子ご注文控え
明治天皇北陸ご巡幸の折は御在所のお茶菓子として、またお供の岩倉具視、大隈重信をはじめ多くの方々からお土産としてお買い上げをたまわりました。近年では山本五十六元帥が柔らかく崩れやすい『越乃雪』を上手に召し上がっておられたという楽しいお話も伝わっております。